先日、私の伯母が亡くなったと母から連絡。あまり接点はない伯母だったが、95歳の長寿を全う。一か月前まで元気だったが、骨折で入院してから急だったようだ。母は昨年11月末に叔父をなくしたばかりだったので、兄弟一人ぼっちになってしまったと、嘆いている。87歳の母にとって唯一の愚痴の相手が伯母だったらしいので、傍からみても今回の死は辛そうだ。父も90歳だが、残った弟は1人で遠方にいるので会うこともない。父は耳が遠くなったので話す相手もおらず、する仕事もないので、ただ炬燵にいるだけだ。時折、実家に行って様子を見ているが、年老いた親を見るのは辛い。二人の口癖は、世話にならずに早く死にたい、というものばかり。今更何かをしたいこともないだろうが、医者だけはあちこち行っている。長生きしたいというより望むように死ねないから惰性で生きているといった方が正しいのかもしれない。ぽっくり行きたくても、叶わないのが普通だ。
医療の発達はもちろん意味のあることだ。その成果は子供や若い人に十分に生かして、彼らの人生を救ってほしいとは思う。でも、自分も含めて老人にはもういいのではないだろうか。長生きすることが絶対幸せであるとは親を見てると思えない。知り合いも兄弟もいなくなり、子(私のこと)も別居して話し相手もいない日々を暮らすのは可哀そうだ。私も自分の生活があり、同居できないから切ないが、親にしてみると子に見捨てられた気がするだろう。
これからは老人には医療者でなく、宗教家が必要なのではないか。体を治すことより、死を一緒に考えてくれる人が大事では。葬式のための坊さんではなく、本当の宗教家(宗派に関係なく、神や死を考える人)がいるならば、死の準備をして心穏やかに、自分で死の形を選ぶこともいいのではないだろうか。もちろん自死を勧めているわけではないが、死の形を最後の自己決定権として認めていいと思う。親の姿を見るにつけ、自分自身も残りの人生をどう始末するか考えていかねばならないと思う。猶予は病気などないとしてもせいぜい10年少しだ。
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