ある知人が退職して1年たってようやく「暇であること」に慣れたという。読書、酒の他、草むしりが時間つぶしにいい具合だという。彼は自分からすると仙人のような人なので、それで十分楽しんでいるようだ。でも多くの人は暇であることに耐えられないようである。だから辞めたはずの仕事を暇つぶしのために再開したり、旅行、趣味、ボランティアなどに励んで時間の空白を埋めようとする。退職老人がよく言う「(退職後は)教育(今日、行く)と教養(今日、用)が大事」とは何か目的、対象がないと生活が不安になることを象徴している。現役時代は嫌ですぐ辞めたいと思っていたのに、やめると暇な方が嫌だとはわがままそのものだが。

 子供の頃からは勉強をやる目的として、「いい学校に入って、いい会社に入って生活すればいい人生が待っているから、だから勉強頑張れ」と言われた人も多かっただろう。だとすれば退職者は今が人生の最高期であるはず。でも退屈で充足感がないと不満を漏らす。神が偉大なのは無限の暇に耐えられる存在だからだそうだ。確かに全知全能の存在は何もかもできるのだから、物事の成就での不安も感激もなく、ただ淡々と世界を作り維持するだけなのだろう。なんでもいつでもできるなら、何もしなくていいのと同じ。つまり暇になるのだ。これに耐えられるのは人間ではないということだ。

 ならば、暇で困っている人間の我々が、神仏に近づけばよいということになる。特定の神でなくても宗教的感性と生活を送ればいいのだ。仏教でも出家が理想だったし、ムハンマドも仕事を辞めてからイスラームを始めた。現役時代はそんな時間はなかったが、目に見えぬ存在(神、霊、死者・・・何でもいい)を感じることでゆったりした時間つぶしになるし、周りの自然や存在を愛おしく思えたりする。若いころ「宗教はアヘン」という言葉を文字通り受け取り否定していた自分から見れば、確実に老人になったともいえる。元気ぶっていても(TVのCMでサプリを買わせるために、煽っていても)確実に死に向かっているのは自明である。あと長くてあと10数年しかこの世に居ないのだと思えば、暇を嘆くのはもったいない。暇に慣れる=神仏に近づく、幸福なことだと思えばいい。喜んで暇であることを受け入れよう。この文を書いているのも暇の証拠。駄文のために思索を少しはしたと思えば儲けもの。

永遠の安らぎ

サイトのURL avyaya nirvana はサンスクリット語で「永遠の涅槃」  自分が老いていく中で、自分が見たもの、感じたものを通じて安らかな日々を得たいと思っています。

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