ロシアによるウクライナ侵略が始まって、1か月以上たった。キエフ攻略は失敗だったようだが、他の町での凄惨な被害(破壊、虐殺)を見るにつけ、改めて「国家」とは何か、考えてしまう。ウクライナにとって国家(領土)を守ることが第一義であることは頭ではわかるが、国民が死に、家を失う現実の重さと比べてしまうことは、「平和ボケ」と非難されるのだろうか。保守派の人から見れば、国を失うということは肉体の死より苦しいことなのだろうか。焦土と化して国民が半分になっても大義を守り主権という尊厳を守った喜びが優先するのだろうか。普通の国民にとって、郷土(ふるさと、生活の場)は何より大事で守りたいが、国家という存在は命に代えても守るべきものなのか。 保守派も自分の命と生活は安全という前提(錯覚)で、日本を守れ、国家を守れと壮語しているように見えるのだが。(安倍はこういう時ほど元気だが、自分が戦火に合うとは思っていないからだ)
国家は当たり前のものではない。江戸時代の農民にとっては「藩」が最大の世界であり、幕府は縁遠い存在(天=お上)でしかなかったはず。フランス革命から国民国家は生まれたとされるが、それだってナポレオンが国民を戦争に動員するために煽った結果といえるだろう。結局、国家はそれを必要とする支配層の統治機構に過ぎないという、古臭い定義に戻る気がする。支配層だけでなく、自己を国家という大きなものに投影して自己満足に浸るナルシスト(民族主義者)もそれなくしては自分のアイデンティがないと恐れているのだろうか。
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