昔の言い方なら三国の(大和・唐土・天竺)の宗教。ヒンドゥー教はインド教(ヒンドゥーはインドを表すシンドが語源)だから、道教は中国教と、古神道は大和教と言っていいのかもしれない。いずれも、土着の民間信仰がベースになっている多神教で始祖がいるものでもない。その点ではみな同じようだが、中身は似ても似つかない。
道教は後に道家(=老荘思想、本来道教とは無関係)を取り込み、老子を始祖としているが、無為自然どころか脂ぎった現世利益をねがう宗教だ。その最たるものが、不老長寿の仙人をめざすというもの(神仙思想)。自分が神になりたいというこれほど「押し・アク」の強い宗教はないかもしれない。ヒンドゥー教もご利益を神々にお願いするが、苦しい輪廻からの解脱を求めるのが基本であろう。寺院の建築や神像は道教同様どぎついけれど、ベースはかなり道教とは違う。深い精神性を求めているイメージだ。だから、インド人を見るとみんなが聖人に見えてしまう(風貌が彫りが深いからだが)。
一方、日本人の神はどうだろうか。祟りを恐れて敵さえも持てなし、神に祭り上げる(それで自分を守る)ことはあっても自分からなろうとすることはない。「靖国の英霊」というしくみも生き残った戦争責任者が自分の罪意識を逃れるべく戦没者の死を偉大なものに正当化しているだけだ。いづれにせよ、神になろうとして、丹薬をつくり精力をもコントロール(房中術)すべく頑張る漢人には、発想が淡白な日本人は何事にも最終的には、勝ち目はないと思ってしまう。でも暑苦しささえ感じる道教寺院より何もない空虚な神社が心地いいのは確かである。
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