柔道とJudo

 7/26からパリオリンピック始まった。柔道の阿部詩選手が負けて号泣したことに賛否のコメントが著名人からあった。その一つが柔道家らしくない、というものである。ネットのコメントの中で、武道とスポーツの差が出た、というのもあった。日本人の多くが知らず知らずのうちに柔道・剣道・空手道というように「道」を求めているようだ。「道」は勝ち負けより礼節や精神性が重視される(のだろう、素人はよくわからないが)。一方、スポーツは「気晴らし」が元々であり勝敗に拘るのが当然だ。スポーツなら負けて泣くのも仕方ないとなるが、武道ではみっともないとなってしまうのだろう。大相撲も相撲道と称して横綱の「品格」(人間性)までも問題にするから、スポーツとしてのSumoは認めていない。でも、日本の狭い世界でする「道」を敢えて捨ててグローバルなスポーツにしたのは他ならない日本人だ。拡大による利権(敢えてこの言い方をする。指導料、昇段料のような経済的面は否定できない)やその世界での権威を求めてきたのは間違いないはず。

 文化は文明へと変わる(ローカルからグローバルに)時に変容するのは当然である。キリスト教だってローマ世界からゲルマン世界に拡大した時、クリスマスに代表される森の文化を受け入れた。イスラームは拡大の過程で聖者信仰、スーフィズムを生み出した。仏教もしかり。中国で禅宗や浄土教を生んだ。同じように武道もスポーツに変容したのだから、(勝ちにこだわるならば)それに対応しなければいけないはず。柔道は互いに組んで技をかけあうのが「正統」だと言っても、勝てなければ人は満足しないだろう。割り切ってスポーツとして競技を見て、勝敗以外の所に何かを求めることをせず、選手を楽にしてやればいいと思うのだが。

 それにしても指導3回=反則負けの柔道の試合を見るより、勝敗が明確な相撲の方がよっぽど格闘技としては面白いと思うのだが。(上記の言い方をすれば、JudoよりSumoだ)

永遠の安らぎ

サイトのURL avyaya nirvana はサンスクリット語で「永遠の涅槃」  自分が老いていく中で、自分が見たもの、感じたものを通じて安らかな日々を得たいと思っています。

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