オリンピックを何が何でも有観客でするという。菅首相が開催の理由を問われ、64年の東京オリンピックの思い出話から、開催の意義を人々に「感動」を与えるためとした。アスリートや芸能人も自分の活動について質問されると、「勇気、元気」を与えたいと言う人が多い。
ここにいつも違和感を持ってしまうのは天邪鬼だろうか。
資本主義の発展を見てみる。商業資本主義(商品を移動させて儲けた時代)、産業資本主義(商品を生産し儲ける=人間労働の商品化の時代)、帝国主義(市場を分捕った時代)。ここまでは見える財貨を売り買いしていた時代だったが、1973年以降、交換媒体(貨幣)を商品化する時代になる。でもまだ見える物体を扱っている。そこから50年の間に、性、健康、各種情報など姿かたちの見えないものがどんどん商品として売られていく時代になった。
そして、最後の商品が人間の感情なのだろうか。永遠に消費を喚起し需要を生み出していくしか道が無いという、自転車操業が資本主義の本質かもしれない。止まったら終わってしまうという恐怖なのかもしれない。だが、「感動、勇気、元気」は何兆円もかけて誰かに華々しく提供されないと手に入らないものなのか、感情さえも誰かに売買される時代は豊かなのか?
「そんなことはない!この感情を売る最大のイベントがオリンピックなのだから、みんな応援しなさい!、見なさい!(コロナを忘れなさい?!)」と、政府が躍起になればなるほど、国民は冷めてしまう気がするのだが。
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